モデルキットデザイナー

岩見慎一

エアロベースは、企画・設計から発送・帳面まで、すべての仕事を岩見慎一がひとりで行っている作家のようなメーカーです。


【岩見慎一 略歴】

 

1965年 和歌山市生まれ

 

1970年(5歳)プラモデルに出会い、衝撃を受ける

 

1972年(7歳)模型メーカー・タミヤに入社すると決める

 

1986年 大阪デザイナー専門学校卒業

 

1986年3月 タミヤ入社

 

1994年 IPMS全米模型コンテスト出場

 

1995年8月 タミヤ退社

 

1996年3月(29歳)エアロベース創業

 

2006年3月 法人化・有限会社エアロベースとして今に至る

 

2027年 エアロベース創業30周年

 


【模型との出会い】

近所の酒屋のお兄さんが、配達ついでに見せてくれたのが、
このジャイアントロボ(に似せたウルトラジャイアンツという●●モノ、、、)


それまで遊んでいたミニカーと違って、

「自分で組み立てること」

 

幼稚園でやっていた粘土細工と違って、

「左右対称の精密なパーツ」

 

身近な材料を使った図画工作と違って、

「工業製品であること」

 

この点に感動したのです!

すぐに駄菓子屋に買いに走りました。

5歳のころでした。

【タミヤとの出会い】

昭和40年代は、プラモデルが遊びの中心にありました。

小学校の前の文具屋や、駄菓子屋でも買えたのです。

友達といっしょに戦車やレーシングカー、キャラクターもの(サンダーバードとか)など

手あたり次第、なんでも作りました。 

そんなとき、通学路にサワダ模型という専門店があることを知りました。

見たこともない立派な箱に入った、信じられないような多くのパーツ。

高価なものは棚の上の方にあるので、買う気のある大人が見せてもらっているのを横からのぞくしかありませんでした。

タミヤの戦車はまだ買えませんので、兵隊セットを買ったところ、その立体感に、いままで作ってきた駄菓子ものとは決定的に違う何かを感じました。また、箱絵や説明図に描かれたドイツ兵の襟章など、資料をみて模型を作るということを知ったのです。

あれが流行っているからとか、これが売れるからとか、そんなマーケティング的企画でなく、伝えたいものがあるから模型で表現する。その姿勢を感じました。真面目に取材してまとめた資料、役割を与えられた動きのあるフィギュア、なにより子供のおこづかいで買えるものからハーレーのような本格的なものまで、まったく同じクオリティーで企画されていることに衝撃を受けました。

私が一番嫌いな言葉「子供だまし」がまったく感じられなかったのです。

 

タミヤに入ろう

このメーカーで働いて、私と同じように世界中の人にプラモデルを好きになってもらいたい

 

この瞬間に、人生のレールが決まったのでした。7歳でした。

小学6年生のときに、ショックなことがありました。

ずっと図画工作の成績がよかった私に、親友2人が、「通知簿どやった?」と聞いてきました。

「図工、"よくできる"をもらった!」と勢いよく答えた私。

「図工じゃなあ」と言って顔を見合わせる親友たち。

そう、中学入学が近くなって親から学業のことをいろいろ言われるようになっていたんですね。

写生も工作も私が一番だったのを友達も喜んでくれていたのに、180度評価が変わってしまいました。

うちの父親は成績のことをまったく咎めませんでした。ふたつだけ言われていました。

人を騙すくらいなら、騙される方になれ。

誰にも負けないことをひとつだけ持て。

「ぜったい工作で世界一になる!」と心に誓ったのでした。

【中学生のころ】

 「技術」という授業が一番好きでした。英語も好きでしたが、技術の中村先生が本当にもののわかった先生だったのです。

中1の夏休みの宿題は「帆を張った船」でした。まったく自分になじみのない分野なので、まずは帆船図鑑を買いました。

なるべく家にある材料で、どの程度まで再現するか考えながら、夏休みまるまるかけて作ったのを覚えています。

これが、自分で用意した資料を参考に作り上げた初めての作品となりました。

「帆がロマンチックやな」と中村先生にほめていただきました。

 

ちなみに、美術の成績は悪かったです。担当の先生が、昨年の生徒の「成績の良い絵」をまず見せるのです。

和歌山城の写生でしたが、下から見上げたアングルから色使い(赤や緑、どれか1色で描く)まで昨年のやつとそっくりそのまま描いた生徒が良い点を与えられました。私の絵は、お城を描けと言ってるのに空が大きすぎるとのこと。しかし毎日遊んでいたお城のイメージは、大きな空の下に建つ和歌山市内で一番高い威厳のある姿でした。大きな空がそれを表現しているのです。

この先生から良い点をもらったら、私のアートの感性がすべて台無しになると思い、あえて自分の描きたい絵ばかりやっていたのです。

そのおかげで、今、エアロベースがあります。

 

この頃、生涯にわたって私の模型の師となる和歌山模型さんと出会うことになります。夏休みのプラモデルコンテストでは、高校にかけて何度出品しても銀賞どまりでした。私は、単に綺麗とか上手い作品にはまったく興味がありません。私の作品は独特のアイデア(クセ)があります。こういう作品は金賞を取りにくいです。しかしながら、この時代からの持ち味が、エアロベース製品に引き継がれていることは間違いありません。

これでいいのだ。

【高校生のころ】

中学からのサイクリング趣味が続いていて、和歌山から長野県や山口県まで走りました。

この作品はタミヤ人形改造コンテストに出品したものです。

BMXの全長は4センチほど。

プラモのパーツがついている枝(ランナーという)を熱で細く伸ばした棒をつないでいます。

エリオットもE.T.もパテから自作しました。

映画E.T.の影響で本物のBMXを買いまして、それを測りながらの製作でした。

高校では水泳部に入りましたので、コンテストまで製作時間が取れません。

というわけで、これは授業中に作っていたようです(友人談)

この映画は、大きな転換点となりました。

アメリカに行って、特撮映画のプロップ(小物)を作る仕事に就くという『夢』が急浮上してきたのです。

実際に映画の特撮に使われた艦船の製作者との文通が始まりました。

その方は、もともと自分のために製作したフォトエッチング製の手すりなど艦船模型用の極小パーツを販売するための会社をカリフォルニアで興したのですが、タミヤ入社との間で迷っていた私に、日本での販売を依頼してきたのです。ビジネス経験がないのと、やはりというか当然タミヤ入社を選んだのです。

しかしこの時から、フォトエッチングパーツの可能性というものがずっと頭に残っていたのでした。

 

フォトエッチング技術を使えばプラスチックではできない細かな部品が作れる。

なんでも作れる!

 

まさかこの10年後に自分がエッチングメーカーを興すことになるとは。

【専門学校のころ】

大阪デザイナー専門学校・インダストリアルデザイン科に入りました。

2年制ですが、担任の地蔵(ちくら)先生が非っ常ーに厳しい方で、入学120名のうち、夏休みが終わった時点で20名ほど「クビ」になりました。不真面目な者を中心に。

2年に上がる進級試験では私も落ちました。追試で超リアル画を描いて合格しましたが、2年に進めたのは60名でした。卒業制作までには40名に絞られ、私は今でいう小径自転車(シティーコミューター)を設計し、なんとか23名の卒業生のうちに入ることができました。

画像の作品はタミヤ製のフィールドキッチンという第二次大戦のドイツ食堂馬車です。

腕試しに、大阪市内で開催された関西AFVの会というコンテストに出品、参加者がお互いに評価するという良い大会で金賞をいただきました。

この会に取材に来ていたタミヤ社員の田村氏に入社希望の旨を伝えたところ、数日後にタミヤ総務部から会社案内と入社試験日が送られてきました。

いよいよタミヤへの道がはっきり目視できるところまできたのです。

【タミヤの採用試験】

1985年8月、タミヤ本社(静岡市)に向かいました。初めて着るスリーピースの背広。プラモデル作品を詰め込んだボストンバッグ。

これで一生が決まる。13年間の模型修業が試される。自分は全国でどのレベルにいるのか。生意気なくせに人前で真っ赤っかになる「積極的な恥ずかしがりや」は、タミヤへの想いを伝えきれるのか? もうアガりまくって、受付の社員が案内してくれた「席」ではなく、「テーブル」に座ってしまったのでした(ややこしい形だもん)

役員面接の前に、私ともう1名の美大出身者だけが別室でデザイン顧問の田宮督夫氏の面接を受けました。現在まで含めても、こんな遠慮のない、鋭い指摘を受けたことがありません。あーいえばこーゆーも得意だった私はなんとか自分の意見(単なる我)を通しましたが、美大の人はもうボロボロの扱いでした。ただし、作品を好き嫌いでけなすとか技術的な点を問題にされることはありませんでした。ものを作る姿勢を見ておられたのですね。オリジナリティー。

いよいよ役員面接で、ひとりずつ部屋に入りました。創業者・田宮義雄会長はじめ役員がずらっと並んで質問が始まりました。

君、坊主頭は面接のためか? 普段からこんな感じです。

これは、長髪を清潔感がないとみていたある部長から。

ボストンバッグから作品をどんどん出して役員の前に並べていきましたら、案外そういう者が少ないらしく、みなさん笑ってらっしゃいました。

志望の動機、親の職業、専門学校の作品、趣味は何かと一般的な質問のあと、好きな模型メーカーは?の問いに、プロター社(伊)と答えました。

タミヤ以外に、だよね? はい、タミヤは作りやすいですが、プロターはつくる人の腕を試す徹底的な設計でその点が好きです。

スポーツも好きで模型や読書も好き、どっちが君らしい? プロスポーツ選手として活躍するのは難しいですが、模型なら今すぐプロとして働けます。

もしタミヤが不採用だったら? 留年して足りないところを補って来年も受けます。

9月の2次試験のあと、採用通知が届くまで、あれほど不安な日々はありませんでした。ガソリンスタンドで大きい声で働くあんちゃんがうらやましく思えました。働く場所があるって素晴らしい。

【タミヤ入社】

20年暮らした和歌山市を離れ、静岡市へ移住。

寮の屋上から見える富士山に感動。

1986年3月、本来の入社前にアルバイトとして1か月、全国各地から採用組が集まってきていたのでした。

全員がライバル。社長になるのは自分じゃ!と張り切っていました。

しかしね、初対面の人や大勢の中で話をするのがすっごく苦手だったのですよ私は。

(今では想像もできませんけど)

となれば、専門学校時代と同じく作品(仕事)で目立とうと考えました。

この作品はちょっと説明しにくいのですけど、実際のラジコンカーの1/2の大きさで、そっくりに完全手作りしたものです。

モーターもバッテリーもサーボも、木を削り出して塗装しています。走りません。

タミヤ社内コンテストで銀賞をいただきました。実際のラジコンカーを設計された滝博士からも「技術、アイデアとも最高」との評価。

金賞候補の1点だったのですが、当時の企画部長の「岩見は最初から調子にのせないように」とのご配慮から。

今は亡き長倉常務、エアロベース製品を見せたかったおひとりです。

【初仕事】

入社前にアルバイトとして1か月働いたのは、配属を希望していた部署でした。直後のタミヤモデラーズギャラリーや静岡ホビーショーで展示するジオラマの手伝い。ガソリンスタンドの壁のタイルを1枚1枚プラ板で切り出し、接着剤で貼っていきました。右端に見えている赤いゴミ箱も私の手作りです。ここには写っていませんが、「出光」の文字をそっくりに手描きしました。専門学校のレタリングの授業が役立ちました。今ならPCでステッカーをつくって終わりでしょうね。

この「出光」を見た上司から「お前、なかなか良い線引くじゃねえか」と言われましたが、さらにタミヤモデラーズギャラリーで展示されたのをご覧になったお客様からタミヤへ手紙があり(月刊冊子タミヤニュースの「声」のコーナーに)、あの「出光」の文字に感動しましたとありました。

うれしいのと同時に、お客様はよく見ているなあ、ごまかしは禁物!と気を引き締めたのでした。

【タミヤの9年】

希望通り、企画部・工作室に配属されました。

広告用の完成見本や百貨店や世界のホビーショーでの展示用ジオラマなど作ります。

英名のPromotional Model Divisionといったほうが伝わりやすいかもしれませんね。

 

商品の広告ですから、これをご覧になる方に、自分も作ってみたい!と思っていただかないと意味がありません。

下手なのはもちろんダメですが、上手過ぎてもいけませんね。

お客様のやる気を引き出すような、

そして、とりあえず説明図の通りに塗って組み立てるとこのような模型が完成しますよという見本であるべきです。

「私の作品」であってはいけないのです。それよりも数を作ることを重視して、実力の60%くらいの力で作っていました。

このフェラーリの場合、最終的に60台くらい組み立てました。2日で4~5台完成させることもあります。

このフェラ-リのようなF-1は、取材に協力してくれたメーカーやチーム、

そしてナイジェル・マンセルなどドライバーへの贈呈用も私が作っていました。

【やっぱり自転車】

「ミスター・ワークライフバランス」と呼んでいただきたいほど、プライベートも楽しんでいました。

静岡ホビーショー直前であるゴールデンウイークや世界のホビーショー前は一日も休んだことがありませんが、

それ以外は基本残業なし。

わたし、定時で帰ります。

毎日のように仕事のあとはジムで息が上がるまでウェイトトレーニング。

先輩にくっついてテニス、スキー、サーフィンなどやりましたが、やっぱり自転車。

トライアスロンを中心に、ヒルクライム、MTB、デュアスロン、そして旅。

その知識が、エアロベースの自転車シリーズ開発に役立ちました。

そして、モデラーに必要なのは体力です!

【タミヤを退社するとき】

1994年7月、米・ネブラスカ州オマハで開催されたIPMS全米模型コンテスト(International Plastic Modelers' Society/USA)に出場。

ジオラマ部門、船のジオラマ部門、1994年テーマ賞の3部門で最高賞をいただきました。

ヤマハのラウンド・ザ・ワールド号を1/72スケールでフルスクラッチ(手作り)したものでした。

この2ヶ月前、静岡ホビーショーのあと、休暇を取ってフロリダフォート・ローダーデールに向かいました。

世界一周ヨットレースの寄港地だったのです。ヤマハといってもニュージーランドのチームで、唯一の日本人クルーは

ロンドンへ休暇に行かれたとのことで、つたない英語で整備中のクルーに頼み込んで本船を取材したのです。

帰国後、数百枚の写真を参考に1か月でジオラマを仕上げ、オマハに飛んだのでした。

オマハのあと、ヨット作品と盾と大きなスーツケースをかかえてカリフォルニアに向かいました。

日本で知り合った映画関係者に、特撮の現場を見学させてもらったのです。ジャングルのセットを作るための見本として

小さなジャングルのジオラマを作っている若者などと話しをしました。

アメリカ行きの『夢』が蘇ってきたのです。

※ この作品はタミヤに寄贈しました。

現在はタミヤ本社(静岡市)の2階ロビーに3つの盾とともに飾られています。

展示ケースも特注されました。台の中にはアメリカまで運んだダンボール(航空会社のシールも残っています)まで保管されています。
見学可能なエリアですので、ぜひご覧いただきたいです。

【『夢』破れ今がある】

 

1995年8月末、9年4か月勤めたタミヤを退職しました。

7月末に本社3階の自席から7階の総務部に退職の書類を持っていくのに、エレベーターは使わず階段で上がりました。普段から階段でしたが、その時もいつも通りにそうしたかったのです。5階、6階と進んでいくうちに心臓がバクバクし、緊張で脚が上がりにくくなったのを覚えています。この書類を提出したら、二度とタミヤの敷居は跨げない。父親から言われた「会社は入るより辞めるほうが難しい」という言葉を超えないと。脚の裏を手で持ち上げながら階段を上がり、総務部に着きました。フロアいっぱいの横長の大窓からは、何のさえぎりもなく富士山が見えます。

入社時に、寮の屋上から見たのと同じ景色でした。いつでも富士山はそこにある。迷いは消えました。

タミヤを去る直前、社長室に挨拶に行きました。

一般社員が辞める時、「一身上の都合」で、挨拶は総務部長までというのがそれまでの慣習だったようですが、そんな無責任な辞め方があるか!と思いましたね。

 

田宮俊作社長は迎えてくれました。

おお岩見、アメリカに行くんだって? はい、アメリカの映画業界で自分の腕を試したいです。

厳しい契約社会だから、仕事が途切れたときでも模型から離れないように、カリフォルニアのタミヤアメリカに席を作っておくからな。

 

全米が泣くようなお言葉をいただきましたが、結局、アメリカには行きませんでした。

スティーブン・スピルバーグ監督の特撮プロップを製作した工房とのパイプがあったのですが、その人が一時工房を閉めたのです。行けばなんとかなるだろうという感触はありましたが、半年以上、地元和歌山にいました。

 

そのうち、あるアイデアが浮かんできました。93年に訪れたミュンヘンのドイツ博物館で実物のフォッカーDr.1三葉機を見た時、フォトエッチング技術を使って1個だけ作品として制作することを思いついていました。待てよ、専門工場で行うフォトエッチングは、印刷と同様に大量生産に向いている。

 

フォッカーDr.1を量産しよう。

自分のアイデアを世に問うてみよう。

これがエアロベースの始まりでした。

 

ずっとあとになって、あの時アメリカに行かなかった理由がわかりました。本当にやりたいことではなかったのです。憧れのスピルバーグやルーカスの大作のクレジットに SFX by Shinichi Iwami と現れる。すばらしい『夢』だと思いますが、私がやりたかったのは模型作りの楽しさを広めること。けっして自分が作家として賞賛されることではなかったのです。賞賛されるべきは私が設計した製品を一生懸命つくった子供であり大人であり、模型を通して自信を持ったり、一生の趣味を見つけたり、模型ライフを仲間と楽しんでもらうこと。7歳のころタミヤを目指したときと同じ気持ちです。

 

「ねえねえ、模型って知ってる? 面白いから今日いっしょに作ってみない?」

と、隣の席の子に話しかけたあの頃と同じ気持ちで、今も商品開発を続けています。

【エアロベース創業】

設計図をフィルムに起こし、真鍮などの金属板をマスキングします。溶けてはいけない箇所をカバーしておくのです。エッチング液がかけられると、カバーされていない部分が溶け出します。おもてだけ溶かして、うら側をカバーしておくと、凹になり、折線として利用できることを思いつきました。

 

金属の折り紙

エアロベースのコンセプトが決まりました。

 

当社製品はどれもいっけんすると複雑で、作れるかどうか不安になります。少しだけ勇気をもって作り始めると、アレ?こんな仕組みだったんだと気づいていただけるはずです。その「ハードル」の高さの設定には、これまで8,000人以上といっしょに作ってきたワークショップが役立っています。

下の画像は、97年に発行した最初のカタログです。小さな折り鶴を添えています。初めて折り鶴を見た人でも、折り方を教えてもらうとあっという間に手のひらに載せることができるでしょう。折り鶴のようにだれでも楽しめる模型。それをクオリティーと呼んでいます。今後も理想の製品を追求していきます。

当社製品の対象年齢は15歳以上です。お子様が作るときは、必ず保護者がつきそい、パーツの尖り、パーツの入った袋をかぶらないこと、工具の扱いと保管に注意を払ってください。当社製品の素材は主に真鍮、銅、ステンレス、ホワイトメタル、マグネット、ヒノキです。アレルギーのある方はご注意ください。

すべてのエアロベース製品はモデルキットデザイナー岩見慎一が設計し、国内の委託工場で生産しています。